部屋の中に一歩



部屋の中に一歩

最初に今日子が感じたのは、自分の股間の冷たさだった。

 

手が濡れたのが愛液のせいだと気づいて、そこで意識が半分戻った。

 

躯が重い。

 

下半身に異物感がある。

 

椅子から身を起こした今日子は、ガスマスクが床に落ちているのに気づいた。

 

あの人に顔を見られたのか?一瞬不安になり、あたりを見回した。

 

夕暮れ時、薄暗いアトリエの中には人影はない。

 

多分、無意識のうちに自分でマスクを取ったのだ。

 

今日子は両足を床に下ろし、椅子に腰掛ける姿勢に戻った。

 

夢じゃない。

 

その証拠ははっきりと躯に残っている。

 

女として、その快楽の極致まで到達したことは幸せだった。

 

その瞬間に死ぬことができたら、もっと幸せだったろう。

 

しかし、生きてしまった。

 

ガスマスクを取ったために生きてしまった。

 

生きている限り、満たされないのだ。

 

今日子の躯は、もう渇きを訴えていた。

 

あの男が欲しい。

 

疼きとともに、そう叫んでいた。

 

夜の食事を終え、部屋に戻るとすでに寝具の準備ができていた。

 

広い畳敷きの部屋の真ん中に、寄り添うように二組の布団がのべてある。

 

先に襖を開けた畑田恵介(はただ・けいすけ)は、恥ずかしがってか立ちすくんだままだ。

 

「どうしたの、そんなところに突っ立って?」

 

「ああ、これのこと?」

 

と愛くるしい笑顔を見せた。

 

「大丈夫よ。

 

まだ眠くないでしょ?それより、この部屋、専用の露天風呂があるから、一緒に入らない、これから?」

 

「……」

 

侑香が快活に振る舞えば振る舞うほど、恵介はだんだん暗くなるようだった。

 

「そうか、食べた後すぐにお風呂に入るのはよくないって、いうものね。

 

じゃ、お茶でも入れようか?」

 

顔を上げると、恵介はようやく部屋の中に一歩を踏み出したところだった。

 

恵介を自分に紹介するとき、大学教授の父は

 

「パパの一番弟子だからといって、無理に好きになる必要はない。

 

気に入らなければそれでいいから」

 

と言った。

 

しかし、侑香は、父の本心が言葉と全く裏腹だということを見抜いていた。